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Daily Bread 2016年5月11日
Written by Pastor Sho Usami
Tuesday, 10 May 2016 15:09
1ヨハ2:10-兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。

光の中を歩んでいると、どこを歩くべきかがとても明確に分かります。目の前に光があると、どの道の曲がり角でも、成すべき選択が明確に見えます。この節は、イエスが光の中を歩んだように光の中を歩むということが何を意味するのかを、私たちが完全に理解するための手助けとなってくれます(1ヨハ1:7)。イエスは、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言いました(ヨハ13:34,15:12;1ヨハ3:23)。神が私たちを召したのは、神の聖なる愛の中を歩むためです(ヨハ15:19,17:26;1ヨハ2:15,4:7-8)。

愛には悪がはたらかないので、愛は律法を全うするものであることを私たちは知っています(ローマ13:10)。また、私たちは、神の聖なる愛が、御霊によって私たちの心に注がれたことも知っています(ローマ5:5)。私たちがすべきことは、自分のからだの各部分を神に委ねることだけです。そうすれば、神の愛の栄光が、生ける水の川となって私たちから流れ出します。ギリシャ語で聖なる愛は、「agape」です。この言葉は、新約聖書の中で百十六回出てきます。

神であるお父さんは、彼が私たちに神の愛の中を歩むことを命じているということを、とても明確にしました。この愛は神の御霊からしか流れてこないことを認識できていないと、それは新約聖書の最も重要なポイントを逃してしまっているということです。愛の中を歩むというのは、つまずいたり、倒れたりする機会のない領域のことです(2ペテ1:10)。

命を与えるイエスの名にある力によって作り変えられた者は、皆聖霊の命が与えられました。この神にある命の実体、証拠は、神の愛によって表されます(1ヨハ4:7-8,3:14;ヨハ13:35)。私たちがしなければならないのは、体の各部分を義の武器として神に委ね、この神の愛の栄光ある領域に身を任せて、私たちの心からそれを溢れさせるだけです。
 
Daily Bread 2016年5月9日
Written by Pastor Sho Usami
Sunday, 08 May 2016 16:41
エペ1:9-みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらがじめお立てになったみむねによることであり、

私たちは、救いという栄光ある奥義を見抜くための力が与えられました。イエスが来たことで、この奥義は明らかにされました。彼の命を通して、それまで秘密にされてきた隠された事柄が、知られることとなりました。キリストイエスにあって、神は、交わりの奥義を明らかにしました。-それは、あらゆる時代を通して隠されてきた奥義ですが、キリストにあって、露にされました。:つまり、一つになるという奥義です(コロ1:27-28;エペ3:9;2コリ6:16;1ペテ1:10-12)。人を創造した神はまた、人の内に生き、住む方です(コリ1:27;ヨハ14:20,23;1コリ3:16;1ヨハ3:24)。

福音を語ることによって、発された言葉の奇跡的な力が、人の心を変え、国籍に関係なく、神の国に従う全ての人を立て上げます(ヨハ15:3;ローマ16:25-26;使徒10:34;エペ3:3-6;コロ3:11)。全ての人の罪の刑罰を完全に報いるために、十字架の祭壇に捧げられた神の子羊によって、贖いの奥義が明らかにされました。そこで、神であるお父さんの、すべての人に対する熱心な愛が表されました。また、救いの奇跡は、聖霊のはたらきを表しました。また、神の驚くばかりの恵みのわざによって、キリストイエスが心の中に形づくられるようになりました。信じる者は全て、聖霊の宮とされ、主の御霊によって、神の方法、神の律法が、石ではなく、肉の心の板に刻み込まれました(2コリ3:3;ヘブ8:10,10:16;2ペテ1:4)。

これらすべてのことが、模範となるひとり子にあって、明らかにされました('protithemai')。イエスは、人間の創造に関する全ての美しいものを私たちに見せてくれました。彼と神が、彼らのイメージに、その似姿に人を創った時、神が何を意図していたかを示してくれたのです(創世1:26)。贖いの奇跡のために、イエスは最後のアダムとして来、全ての罪をその肉に負いました。そして、すべての不義の訴えを打ち滅ぼし、不義は人に属するものではないことを証明しました(1コリ15:45-48;ローマ8:1-3)。御霊による変化を通して、私たちは今や、天のイメージをこの身に結ぶことができます。そして、神であるお父さんと完全に一致して歩むことができます(テト3:5;ヨハ17:21-23)。イエスがお父さんと持っていた関係性を通して、彼は、神と共にすがすがしく歩む方法を私たちに示してくれました。そして、彼の歩みに習うよう、全ての人を召し出しています(1ペテ2:21;マタ3:17,17:5;2ペテ1:17)。
 
Daily Bread 2016年5月7日
Written by Pastor Sho Usami
Friday, 06 May 2016 15:12
使徒8:39-水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。

使徒の働きの書には、教会と信じる者の人生における神の尋常でない力の表れについて常に記録されています。ピリポの働きにおけるこの出来事には、「harpazo」という言葉が使われており、「つかむ、持ち去る、ひったくる」などと訳されます。これは、第一テサロニケ四章十七節で使われている言葉と同じで、そこでは、主イエスがその聖徒と空中で会うために戻ってくる時のことについて話しています。「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」

ピリポの人生におけるこれらの出来事は、教会に仕えていた人たちが、どのようにして聖霊の直接的な影響と導きを受けて生きていたかを私たちに教えてくれています。イエスとその弟子たちの人生において表されたのと同じ力が、今日のイエスの働きの中でも、様々な奇跡的な形で表されるべきです(ヨハ6:19-21,14:12)。

神のしもべたちが聖霊の支配の下にあることで、神が彼らをある一つの所から別の場所に移す時、神という実体を疑問に思うことは難しくなります。教会は、偉大な功績と神の力の表れによって名声を受けていなければなりません。それは、私たちを取り巻く世の中が、神という素晴らしい現実に恐れおののき、震え上がるためです。神の聖徒として私たちは、この世より、天の領域に生きるために、そのような神との聖なる関係に立ち返る必要があります(コロ3:1-4;エペ2:6,3:10;ヘブ11:16,6:4)。

偉大な功績と神の力が、旧約聖書の人々の人生の中でも、様々な形で表されました。エノク、エリヤ、エゼキエルは、神の御霊によって移された人の一例です(ヘブ11:5;2列王2:11;エゼ3:14)。明らかに、エリヤにとっては、御霊によって別の場所に移されることはよくあることでした。そして彼の周囲の人々は、その人生に表される神の素晴らしい力に震え上がりました(2列王2:16;1列王18:12)。
 
Daily Bread 2015年5月6日
Written by Pastor Sho Usami
Thursday, 05 May 2016 16:00
エペ1:7-この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

あなたは、どのようにして赦されるかについて疑問に思ったことはありますか。赦しがあなたの負債をただ許したのか、または取り去ってくれましたか。イエスが過ぎ越しの杯を弟子たちに渡した時、彼は言いました、「これは、私の契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタ26:28)贖いはすでに行われて、キリストイエスが失われた人々を取り戻しました。-私たちの罪は、拭い去られたのです。私たちの魂についた罪の汚れは、取り除くことのできない赤い染料がこびりついた衣のようでしたが、イエスの血がそれらを消し去り、私たちを雪よりも白くしてくれました(イザ1:18;黙示1:5;使徒22:16)。イエスの血が、私たちと神との関係性、交わりとなりました。-私たちは大胆に、最も聖なる領域に入っていくことができます(ヨハ6:53-56;ヘブ10:19)。イエスの血は、神の命を私たちに分け与えるための手段です。

「赦し」に使われているギリシャ語は、「aphesis」で、「遠くへやる」という意味の「aphiemi」という言葉から来ています。また、七十人訳では、イザヤ書61:1にあるように、ヘブル語の「salach」や「deror」を訳すためにも使われています。-これらの言葉の意味は、それぞれ「遠くへやる」、「解き放つ」です。ギリシャ語「aphesis」は、七十人訳ではよく使われる言葉で、五十回出てきますので、その意図された意味については疑問が残る言葉ではありません。この言葉は、民数記36:4にあるヘブル語の「ヨベルの年」を訳したもので、申命記15:2では、「解き放つ」と訳されています。それは、七年の終わりごとに、神が負債を免れさせること、または五十年の終わりごとに、解放と完全な回復がなされることを表しています。私たちが受けた赦しは、完全に罪を消し去るものなので、悪行のために将来に何か影響が残るということはありません。赦しはまた、罪人が罪を犯す前に握っていた地位を楽しむことができるようにと、すべてを取り戻させます。神の愛は、解放と回復を与える赦しを、私たちのために買い取ってくれたことを確かなものとしてください。

キリストイエスにある贖いを通して、私たちは聖霊による新生と更新との洗い清めを受け取りました(テト3:5)。この栄光ある恵みのわざが、新しい創造を生み出しました。全ての古いものは過ぎ去りました。見よ、すべてが新しいのです!(古いものを拭い去り、新しいものを生んだ)神の恵みの富は、新しい心と新しい霊の創造を超えたものであり、いつまでも彼の血で洗い清めてくれることで、私たちがしみの無い者であり続けさせてくれます。私たちがもし罪を犯したとしても、イエスの血が違反を取り除き、罪を洗いさってくれます(1ヨハ1:9,2:1-2;ローマ5:16)。神の測り知れない憐れみと愛という豊かな恵みを通して、彼は私たちの相続の分を回復させ、神にある地位を取り戻させました。彼が光の中にいるように、私たちも光の中を歩もうとするならば、引き続きすべての罪を取り去ってくれます(1ヨハ1:7)。私たちが間違ったとき、前に進む機会があるのは、(赦しに表現されている)神の憐れみを通してなのです。

私たちが神との契約の中に入れられ、神を通して人生における全てのことが完全なものとされるようにと彼の力が与えられたのは、神の愛すべき恵みを通してのことでした!私たちが神に教えられ、聖霊の導きと語りかけに応えていく限り、神は、忠実に私たちのことを支えてくれます。私たちが神の愛を受け取り、従順になって応答し、彼の道を歩むならば、彼は、私たちが必要とする以上の許しを与えてくれます:一日に490回もです(マタ18:22)。全能の神は、私たちが罪とがの血で汚され、不従順の子として歩んでいるのを見ました。しかし、それでも神はその愛情を私たちの上に注いでいます(エゼ16:6-14;ローマ5:10;エペ2:2)。神は、私たちを惜しみなく愛しました。そして今も愛しています。-私たちが成すべきことは、従順になって応答することです。そうすれば、彼の豊かな命の喜びが完全に現実のものとなります。さあ、今日、神があなたに対して抱いている愛を知って、信じてください(1ヨハ4:16)!
 
Daily Bread 2015年5月5日
Written by Pastor Sho Usami
Wednesday, 04 May 2016 14:27
エペ1:6-それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

ギリシャ語の「charitoo」は、「非常に好意を持たれている」、または、「恵みが与えられている」と訳すことができます。この動詞を文法的に見ると、「charis」(恵み)に由来し、その語尾は結果を表すもので、その意味は、「恵みをもたらす」となります。恵みと真理をもたらした方イエスキリストによって、私たちに与えられた恵みの賜物という観点から、この訳は、イエスキリストによって私たちの心に与えられれ、注がれた聖なる力について強調する役割を果たしています(ローマ12:5;ヨハ1:15-17)。祝福あれ。
 
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