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Daily Bread 2015年5月4日
Written by Pastor Sho Usami
Tuesday, 03 May 2016 14:54
エペ1:5-神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

私たちの天のお父さんは、私たちを子どもとする(huiothesia)ことをあらかじめ定めました。神の人を贖う計画は、あまりにも完全なため、聖霊によって、霊的に天から生まれることは、全ての人、全ての信じる人にとって可能です(1テモ2:4
;ペテ3:9;ヨハ3:16,12:32;テト2:11;マタ7:24,10:32,12:50;ルカ6:47)。多くの謎が過去を取り巻いていますが、私たちは、神が人を聖なる、非難されるところのない者として創造したように、神の子としても私たちを創造したということは知っています。アダムが罪を犯し、サタンに扉を開く前までは、お父さんである神は、御手のすべてのわざの上に彼を置き、特別な支配権と権威の地位をあれに与えました(詩篇8:4-7;創世1:26,28,2:15;ローマ5:12-21)。お父さんは人をキリストイエス(ことば)にあって創造したように、またキリストイエス(人の体を持って生まれた御子)を通して私たちを贖うことも定めたので、人が投げ落とされたのは、一時的なことでした。聖霊は、一人の処女の胎の中に、永遠の言葉を子どもとして作り出すという軌跡をはたらかせたように、これと同じ御霊が、信じる者の内に新しい心と霊を造り出すという奇跡も行います(ヨハ1:12-13;エゼ36:26;ルカ1:35;2コリ5:17-18;テト3:5;エペ4:24)。

ここで、「子ども」に使われる特別なギリシャ語は、「'huiothesia」です。この言葉は、子どもを養子にするという意味でも使われますが、「子どもとする」とも訳すことができ、新約聖書ではこの言葉は、後者の意味で使われています。それは、何か背負わされるような関係ではなく、救いの奇跡の現実です。私たちは御霊によって生まれ、みことばによって生まれ、救いの奇跡を通して神の子どもとしてつくられたことを心に留めておかなければなりません(ヨハ3:1-6)。

私たちを新しい創造とした新生は、何か背負わされるものとみるものではなく、性質の変化です(2ペテ1:4)。悪魔が父であると見なされていた、私たちが過去に持っていた古き人は滅ぼされました(ローマ6:6;エペ2:2;ヨハ8:44)。私たちは神から生まれたので、今の私たちのお父さんは、お父さんである神なのです(ヨハ3:3;1ペテ1:23;1ヨハ3:9,4:7,5:1,4:18)!「Huiothesia」は、私たちの地位が神から生まれた子どもであることを説明し、御子の御霊によって、「アバ」と叫ぶだけでなく、相続者でもあると言っています(ガラ4:5-6)。

適正に生まれて、しかも養子とされるということが、一人の人の中で起こったことがあるでしょうか。新生したときに、私たちは神の子の性質を受け取りました。しかし養子では、ただ神の子としての地位を受けるだけです。新生は性質の変化ですが、養子は、ただ単に地位の変化でしかありません。生まれて神の子となった者として、私たちは、神が私たちのことを完全に成熟した、相応しい全ての権威と特権を持つ者とみなしているのだと言うことができます(ガラ4:5-6;ヨハ1:12)。
 
Daily Bread 2015年5月3日
Written by Pastor Sho Usami
Monday, 02 May 2016 16:42
エペ1:5-神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

神は、信じる者すべてに、キリストイエスにある親子関係を持つ特権を約束しました(ヨハ1:12)。ギリシャ語の「prooritzo」は、「所定の」や、「あらかじめ定められた」と訳されますが、どちらも、「前もって決められた」という意味があります。このギリシャ語は、エペソ人への手紙2:10「これらの行いは、私たちがそれに歩むようにと、あらかじめ定められたものです。」にある「proetoimazo」と似たような意味を持っています。

結論を言うと、これが、「決定論」、または、ある人は地獄へ、またある人は天国へ行くという永遠の運命予定説について言っているというのは、全く文脈に合っていません。焦点は、神の人に対する計画であって、神の人に対する個人的な前決定ではないということです。神はこれらの節で、たたえられているのです。神は、人を創造することを選びました。そして、彼らが、神の愛の只中に立ち、非難されるところのない聖なる人々であるべきことを選びました。また、全ての人々が救われるべきであり、決して滅びるべきでないことを選びました(1テモ2:4;2ペテ3:9)。
 
Daily Bread 2016年5月2日
Written by Pastor Sho Usami
Sunday, 01 May 2016 15:24
エペ1:4-すなわち、神は私たちを世界の基のおかれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

神は、私たちを彼のイメージに、似た者として創造しました。それは、私たちが永遠に神の家族として生きることができるようにするためでした。家族であれば、皆一緒にいたいと願うように、神は、私たちが彼と共にいることを望んでいます。神の家は、愛と平安の場所です。神は、命を愛し、死と罪を憎んでいます。また、彼は、全てのよいものに身を捧げており、私たちにもそのようであってほしいと思っています。神は、純潔とすべての完全なよきものを愛しています。

憎しみ、欺き、悪に満ちた、この罪多き世の中に住む私たちはよく見聞きしている、全ての悪の物事と神とは、何の関係もありません。命は、死とともに存在することができません。義と罪も何の合意点もありません。人が悪を握っている限り、愛と平安のある命というものは存在しません。

罪深き、反抗的な人を正しい方向へ向き直すために、神であるお父さんは、ひとり子であるイエスキリストの命と血を私たちに与えました。彼は、私たちが正しい道に戻ることができるよう、キリストイエスにあって私たちを新しく創り変えました(エペ2:10,4:24)。神の憐れみと恵みによって、私たちが全ての聖なる、神に受け入れられるものとなるために、道が作られました(コロ1:22;ローマ12:1;エペ1:6;ヘブ10:19)。私たちはもはや、闇の中を歩く必要も、正しい事から離れて歩く必要もありません。イエスの血は、完全に私たちを全ての罪から洗い清めてくれたので、もう罪とがの跡も傷も残りません。パウロは、コロサイ人への手紙1:22の中で、キリストイエスにある贖いの結果について書いています。つまり、神は、私たちを「聖く、傷なく彼の御前に非難されるところのない」者としてくれたのです。全ての罪が取り除かれ、新生という奇跡によって完全に新しい命が与えられました。

神は、私たちが神の方法で教えられ、立て上げられるようにと、神の聖霊を私たちに与えました。しかし、神の憐れみはそこで終わりではありませんでした。私たちが罪を犯したとしても、イエスの血が私たちを全ての不義から清めてくれるのです(1ヨハ1:7,2:1;ローマ5:16-19)。神の方法は、人の心が望むこと全てに満ちています。つまり、彼のうちにのみ、全ての人が探し求めている愛、喜び、平安があるのです。神の命を知ることによってのみもたらされる、満ち溢れる喜び、楽しみが、神の臨在の内にあります。神の命は、キリストイエスのうちにあります。そして、新しく生まれ、キリストイエスを持つ者全てに、命があります。さもなければ、彼らは生きていながら、死んでいるのです(1ヨハ5:11-12)。聖霊は、私たちがどのような者になるために創造されたかを教えたいと望んでいます。-私たちは、ただ彼の愛に応答するだけでいいのです。神のことば、キリストイエスのうちに、自分が本当は何者なのかを知る知識を見出し、死に至らせる罪によって傷つけられることのない、純真さの栄光、聖なる生き方を知ることができます(箴言2:9,9:10)。
 
Daily Bread 2016年4月30日
Written by Pastor Sho Usami
Friday, 29 April 2016 17:58
エペ1:4-すなわち、神は私たちを世界の基のおかれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

「世界の基」の意味を正しく理解するためには、まず、ことばであるイエスキリストが、初めにお父さんによって示されて全てのものを創造したことを知っておく必要があります(ヨハ1:1-3;ヘブ1:2;コロ1:15-16)。しかし、創世とは異なる、アダムが罪を犯し、サタンに対して権威を放棄するという悲劇が起きた時があります。「基」と訳されているギリシャ語の「katabole」の意味は、「覆す、投げ倒す」、または、種を植える時に、「投げるようにして蒔く」、「投げ落とす」という意味でも理解されます。-このように世界が覆された時は、園で起きました。

アダムが創造された目的は、罪によって邪魔されました。しかし、全てを創造したキリストイエスは、来て、罪の力と罠から人間を解放しました。それは、神の目的が存続するためでした。人が罪から贖われたことだけが、神の恵みのわざだっただけでなく、アダムを最初に創造した時に、聖なる招きをもって彼を呼び出したことも、神の恵みのわざでした。神が人を創ったのは、聖くない目的ではなく、聖い目的があったからでした。サタンの惑わしと罠は、神の人間に対する計画を変えることはできず、ただ一時的に邪魔するものとなっただけでした。神がアダムを創造して、神の手によってつくられた全てのものを支配させるという卓越した地位は、キリストイエスの贖いによって保持されました。

「世界の基」とは、人が地上に形づくられた後の時代のことを言っています(ルカ11:50;黙示17:8)。これらの聖書の節は、世界の基が据えられて以来流された、預言者の血のことと、神に従った故に命の書に名が記された人々のことについて言っています。また、「世界の基」とは、イエスが人を贖うために血を流す必要が生まれた時のことです(ヘブ9:26;黙示13:8)。結論を言うと、「世界の基」について考える時、それは、世界の創造の時のことを言うのではなく、イエスが人を贖うために、その血を流す必要性が生まれた時のことを言います。ここから、預言者がその血を流し、従順な人々が命の書に名を記され、イエスの血を表す血の生け贄が捧げられる時代が、始まったのです。
 
Daily Bread 2016年4月29日
Written by Pastor Sho Usami
Thursday, 28 April 2016 15:44
エペ1:3-私たちの主イエスキリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

神は、「天」と呼ばれる領域に住んでいます。また、ここで表されているギリシャ語「epouranios」は、「天」という意味です。「天」という言葉は、天の霊的な経験のことですが、同時に太陽や月や星がある所でもあります。同じ言葉でも、異なった意味で理解されます。King
James Versionでは、ギリシャ語の聖書には存在しない言葉、「場所」を用いています。ですから、この訳は本質的でないと思われます。

ヤコブに与えられた素晴らしい啓示の一つは、彼が神の家に住んでいるということでした(創世28:17-19)。私たちが、何か天にしか存在しないと考えるようなものが、この地全体をも満たしているのです。その啓示は、しもべエリシャが、目を開かれて、天の主が、彼らがシリアの軍勢と戦うのを援護してくれているのを見たときに、クリアなものにされました(2列王6:17)。今から後、いつの日か、天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、神の王座が地上の人々の目に明らかになります(黙示6:14-16)。

天にある霊的な祝福とは、神の王国に存在する全ての祝福、恵み、賜物のことを言っています。これらの祝福は、キリストイエスによって、私たちのために買い取られ、無償の賜物として受け取る全ての人々に注がれました。私たちのいる場所は、キリストイエスのいる場所であって、そこで、悪の主権、力を含むすべてのものの上に置かれた権威を持って座しています(エペ1:20,2:6)。天の領域を、神や、そこにいる神の天使、聖徒らだけの領域と思いがちですが、そこには、目に見えない闇の力に属する領域も同じようにしてあります(黙示12:3-8,エペ3:10,6:12)。
 
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