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Daily Bread 2016年4月28日
Written by Pastor Sho Usami
Wednesday, 27 April 2016 16:46
ヨハ4:23 -しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。

今、私たちは、真の礼拝者の時代に生きています。それは、特別な信条や礼拝の儀式というのではなく、神が、高い所からの水のように、聖霊の賜物を注いだからです(イザ41:18,44:3)。ここで言われている礼拝者は、ユニークな類の礼拝者のことで、これより前の聖書箇所では、語られたことがないものです。真の礼拝者は、過去の礼拝者が礼拝したようなやり方とは異なった方法で礼拝します。真の礼拝者は、霊と真で礼拝しなければなりません。それは、イエスが、私たちの内側から、神の賜物を通してわき上がらせる、生ける水によってのみ可能なことです。

イエスは、すべての世代のすべての人に対して、命の真実の井戸から水を汲みに来るよう召しだしているように、この女性のことも招き入れました(イザ12:3;ヨハ7:38-39)。神の賜物は、渇いた魂を満たしてくれる飲み物として私たちに与えられています。この水を飲む時、それは、聖霊のインスピレーションを際限なく供給する井戸の泉、川となります。イエスが与えたいと望んでいる御霊の奇跡的な供給を受け取ることによって、私たちの魂の深い所から出てくる川々が、神への礼拝の中に流れ出します。

荒野の岩であったイエスは、渇く者に対して、今も霊の飲み物を与えてくれます(1コリ10:4;詩篇78:15,105:41)。彼は、牧草地に降る雨のように、また地上を潤す夕立のように私たちのところに降って来ました(詩篇72:6)。彼の与える水を受け取る人々のために、彼は、私たちの命の荒野を水のある沢に変え、砂漠の地を水のわき上がる所に変えます(詩篇107:35)。

身体的な必要のために、飲むということは私たちが日常的に行うことです。誰であろうと、私たちは霊的に生ける水を深く必要としています。多くの神の人々は、私たちが日常的に、自分の持っている霊的な渇きを満たすために、命の泉のところに来る必要があることを理解できていません。この霊的な水を飲むたびに、聖霊は、私たちの内なる人から、聖霊の喜びが流れ出るようにしてくれます。神に委ねて、私たちの最も深いところにある霊的な必要を供給してもらう時、礼拝と真理の川々が、神への賛美の中に流れ出ます。
 
Daily Bread 2016年4月27日
Written by Pastor Sho Usami
Tuesday, 26 April 2016 15:10
使徒7:9-10
-族長たちはヨセフをねたんで、彼をエジプトに売りとばしました。しかし、神は彼とともにおられ、あらゆる患難から彼を救い出し、エジプト王パロの前で、恵みと知恵をお与えになったので、パロは彼をエジプトと王の家全体を治める大臣に任じました。

ステパノは、サンへドリンでの証言の中で、イエスをヨセフと比較しました。彼は、イエスが兄弟たちから拒まれたように、どのようにヨセフが兄弟たちから拒まれたかを比較しました。パロが最終的にヨセフを、国の最高地位へと引き上げたように、神はイエスをすべてのものの上に置きました。

時に、私たちも不当に扱われますが、神が全ての患難から私たちをも同じように救い出してくれるという確証があります。ギリシャ語の「thlipis」(患難)は、外的な状況(困難)によってもたらされる苦悩のことを言います。しかし、神はいつも、すべての困難な状況で私たちを助け(parakaleo)に来てくれます(2コリ1:4)。

ヨセフにやってきた困難が、神の解放と昇進をもたらしたように、今日、私たちにも同じ約束が差しnのべられています。第二コリント四章十七節にこうあります。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」サンへドリンの多くの人々にとって、イエスの命は、完全に敗北し、見捨てられて終わったように見えました。しかし、ステパノは、敗北かのように見えたことが、実は、神であるお父さんが、その右の座にキリストイエスを引き上げる結果となったことを知っていました。
 
Daily Bread 2016年4月26日
Written by Pastor Sho Usami
Monday, 25 April 2016 16:29
マル8:32-34
-しかも、はっきりとこの事がらを話された。すると、ペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

聖なる計画がどのように運ばれるかについて、ペテロの考えとイエスの考えは異なっていました。人間的な理解で、ペテロは、イエスが大衆によって受け入れられることを望んでいただけでなく、イスラエルの王となることも望んでいました。間違いなくペテロは、これらすべてがどのように行われていくかを予測していました。イエスが、自分は拒まれ、殺されるのだということを知らせた時、それはペテロが理解していたこととは真逆のことで、彼には全く意味の分からないことでした。死というのは、全ての夢や野望に止めを刺してしまいます。ペテロは、イエスが人間の統治よりもはるかに偉大なことを成し遂げること、つまり、死に打ち勝つのだということを理解できませんでした。

神の関心が人間の関心にはるかに勝っているように、聖なる力は人間の能力にはるかに勝っています。私たちが、理解できる物事にまで神の力を制限してしまう時、私たちは彼と共に前に進むことができません。ですから、私たちは、自分自身を主の前にへりくだらせなければなりません。彼が、その心の中に私たちのことを最も気にかけてくれているのだということを知る時、これは難しいことではなくなります。また、私たちが、自分自身の能力や理解に頼ることが無益であることを悟る時、自分自身を否定するために必要となる謙遜さが、もっと容易にもたらされます。自分の考えよりも、神のことばと計画を高くすることが、私たちのできる最も賢明な事柄です。もし、神の導きと私たちの内に働く力にのみ信頼するならば、私たちは、自分自身を否定し、神が求めている謙遜の内を歩むことになります。この神への服従があって、神が私たちを通して行いたいと望んでいること、栄光を表したいと思っていることを、神自身に成し遂げさせることができるのです。

私たちの最も大きなチャレンジは、自分のやり方で物事を行うことをやめることです。私たちも計画を持つことはできますが、人間の能力では、しるし、不思議なわざ、聖霊の表れをもたらすことはできず、神が意図している、私たちを通して彼が表されるための力や神の福音を伝えるための力もありません。これについて考えてみてください。もし、神がペテロが計画したようなやり方で物事を成していたならば、私たちは今日、贖われてはいないでしょう。

もし、私たちがイエスについていって、神の超自然的な力の中に入っていくならば、私たちは、自分自身と自分のやり方で物事を行うことを否定しなければなりません。私たちのやり方は、人間の能力に限られてしまいます。私たちが人間の能力に頼っている限り、聖なる力を失ってしまいます。イエスでさえ、自分だけでは何もすることができないと言いました(ヨハ5:30)。もしイエスについていきたいならば、聖霊の超自然的な働きに頼らなければなりません。また、神であるお父さんを見上げて、彼を知ろうとし、委ねようとしなければなりません。そして、私たち自身をわきに置くことで、神がわざを成してくれることを信じなければなりません。私たちは、自分の意見を混ぜることなく、みことばを話し、みことばを行わなければなりません。私たちは、私たちの先生であるイエスが示してくれた従順の模範に従う必要があります。彼はこう言いました。「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」(ヨハ14:10)

私たちが自分のことを終わりにして、自分の能力を超えたところに一歩踏み出せば、偉大な打ち破りが待っています。神が私たちの内で働くならば、私たちは、神を信じ、彼に信頼しなければなりません。私たちは、自分自身に対して信仰を持ち、同時に、神に対しても信仰を持つということはできません。ただ、全能の神の手の下に、自分自身をへりくだらせましょう。そうすれば、彼が私たちを高めてくれます。私たちの内で、彼の力が働いていることを知る時、神が何を行ってくれるかを見て下さい。みことばの中で与えられている、神の指示に従うならば、私たちは、自分たちの中で働いているのは神であり、私たち自身のわざではなく、内に住んでいるお父さんのわざであることに気付くでしょう。彼こそがわざを行う方なのです!
 
Daily Bread 2016年4月25日
Written by Pastor Sho Usami
Sunday, 24 April 2016 16:49
使徒21:10-11
-幾日かそこに滞在していると、アガボという預言者がユダヤから下って来た。彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される』と聖霊がお告げになっています」と言った。

新約聖書では、預言者を預言者と定めるいくつかの特徴があります。その一つは知識の言葉です。知識の言葉が人々に対して持っている主な効力は、イエスを表し、彼らを救いへと招くものです(1コリ14:24-25;ヨハ1:49,4:19)。新約聖書で初めに記されている預言者は、バプテスマのヨハネです(マタ11:9;ルカ1:76,7:28)。二人目はイエスです(マタ13:57,21:11;ルカ13:33,24:19;ヨハ7:40)。モーセは、来るべき救い主について話したとき、その方のことを預言者と呼びました(使徒3:22,7:37;申命18:15-16,19)。そして使徒の働きには、全員で七人の預言者の名前があります:バルナバ、シメオン、ルシウス、マナエン、ユダ、シラス、アガボ(使徒13:13,15:32,21:10)

イエスが井戸のところで女性と話して、彼女が五回結婚したことがあり、今は夫でない男性と暮らしていることを伝えた時、彼女は、「先生。あなたは預言者だと思います。」と言いました(ヨハ4:19)。イエスがナタナエルに語った同じような知識の言葉は、この啓示を呼び起こしました。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(ヨハ1:49)新約聖書の中に記されている預言者の中で、私たちが最もよく知っているのは、イエスとバプテスマのヨハネです。彼らの働きの中で一番特徴的なのは、人々を悔い改めへと招き、神の国に入ることができるようにしたことでした(マタ3:2,4:17;マル1:15,6:12)。

私たちは、神が教会の働きにおいて預言者を置いたことを知っています。ですから、教会がある限り、預言者も存在します(1コリ12:28;エペ4:11)。今日、使徒、預言者、伝道師、牧師、先生といったミニストリーの賜物は、教会のリーダーですが、大抵牧師というカテゴリーに入れられます。際立って例外なのは、伝道師です。しかし、ほとんどの力ある伝道師たちもまた、ある所では牧師的な役割があります。これは、牧師の役割が必要不可欠だからというわけではなく、賜物それ自体が教会という組織に織り交ぜられているのです。
 
Daily Bread 2016年4月23日
Written by Pastor Sho Usami
Friday, 22 April 2016 17:54
マタ26:28-これは、私の契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

自分と神との間に隔たりがあると思う時には、いつもこの契約を思い出してください。彼の血が、あなたを全ての不義から洗い清めてくれます。もしあなたが、神に対して不誠実できてしまって、あなたの魂を訴える者が、可能な限り全ての非難すべき点を絞り出そうとしている時、ただこの契約を思い出してください。あなたがすべきことは、あなたの罪のために十字架上で死んだイエスをただ見上げて、それが自分のためだったのだということを思い出すだけです。彼が、どのような罪からもあなたは赦されていると言ったことを覚えておいてください。

私は、美しい虹を見るたびに、神がその契約を立ててくれたことを思い出します。虹は、神が誠実で、決して忘れるということがない方であることを即座に思い起こさせてくれるものの一つです。確かに、虹は水の上に光が輝く時に現れるのと同じように、神が自分の契約を守る方であるのは確かです。神は、私たちが彼の契約を覚え、彼の私たちに対する愛と善意を信じることを望んでいます。彼は、私たちに恐れや恐怖の中を歩んでほしいとは思っておらず、私たちが繁栄し、多くの実を結ぶことができるよう、祝福したいのだということを知って、心配せず安心してほしいと思っています。実際、私は虹を見る時に、この地の悪を滅ぼした洪水のことは思い起こしません。そうでなく、死を打ち破り、命と不死をもたらしたイエスのことを思います。神がキリストイエスにあって、私たちと契約を立てた時、彼は、さらにもっと美しく、完全で、永遠であることを成したのです。

神は、自分の約束すべてに対して誠実な方です。イエスがカルバリーで私たちのために成した契約を覚えるところに、私たちは安心と安息を見出します。お父さんは、あなたと私のために、そのひとり子を捧げました。彼が、その息子を惜しむことなく、私たちの罪のために捧げてくれたのならば、御子によってすべてのものを私たちに無償で与えてくれることは確かです。イエスは、全ての人の代表となって、あらゆる罪とがをその身に負い、取り去ってくれました。そして死により、それらの力を滅ぼしました。「そして、モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハ3:14-18)
 
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