9850 Carroll Canyon Road
San Diego, CA 92131 

map-apm-new

Click on map to get directions

Daily Bread 2016年4月16日
Written by Pastor Sho Usami
Sunday, 17 April 2016 23:47
エペ6:17-救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことば(rhema Theo)を受け取りなさい。

第二コリント十章四節で言われている私たちの戦いの武器について考える時、御霊の剣ほど際立って素晴らしいものはありません。新約聖書で言われている武器は二つありますが、御霊の剣が最高の地位を占めています(ローマ6:13)。私たちが遭遇する様々な試みの中で直面する本当のチャレンジとは、私たちが神のことばを信じるか、人の言うことを信じるかということです。もし神のことばを手に取るならば、それは私たちの手にあり、口にある主の剣となります。そしてそれは、私たちを滅ぼそうとし、私たちから神の祝福を盗もうとするすべてのものを打ち破ります。霊的なことであろうと、肉体的なことであろうと、経済的なことであろうと、サタンが私たちに敵対して行ってくる全てのことに対して堅く立つための効果的な唯一の方法は、私たちの唇で神を高らかにほめたたえ、この鋭い両刃の剣を手に持つことです(詩篇149:6)。

私たちの主イエスキリストが、その口の剣で神の敵を殺すように、私たちもまた、人、または悪によるあらゆる敵対する力を神のことばによって滅ぼします(黙示19:15,21;1ヨハ2:14)。ギリシャ語の「rhema
Theo」(神のことば)というフレーズは、新約聖書の中で他に四回出てきます。一回目は、ルカの福音書三章二節の「神のことば(rhema)がヨハネに下った。」です。ヨハネの福音書八章四十七節で、イエスは、「神から出た者は、神のことば(rhema)に聞き従います。」と言いました。パウロはこの言葉をローマ人への手紙十章十七節でも用いています。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストのみことば(rhema)によるのです。」そして最後に、ヘブル人への手紙十一章三節では、「信仰によって、私たちは、この世界が神のことば(rhema)で造られたことを悟り、」とあります。(詩篇三十三篇六節では、logos(神の言葉)が使われていることを知っておいてください。「主の言葉によって、天は造られた。」)

ギリシャ語旧約聖書で最初に「rhema」が出てくるのは、創世記十五章一節で、「これらの出来事の後、主のことば(rhema)が幻のうちにアブラハムに臨んだ。」です。ギリシャ語の「rhema」は、「rheo」という言葉に由来し、その意味は、「話すこと」、「口にして発すること」です。しかし、「ことば」を表すギリシャ語は主に、旧約聖書でも新約聖書でも「logos」です。ギリシャ語「logos」は、新約聖書では三百三十回出てきますが、「rhema」は七十回です。また、ギリシャ語「logos」は、七十人訳では千二百三十九回、「rhema」は五百四十六回出てきます。ギリシャ語の「logosとrhema」は、同じヘブル語の言葉で訳されています。しかし、logosと訳されている場合の九十パーセントは、ヘブル語「dabar」を訳したもので、これは、「書き言葉」または、聖書的ヘブル語の中の「モーセの律法」でしか使われない言葉です。しかし同時に、「rhema」はモーセの五書では、主に「dabar」の訳として使われ、「logos」は預言の書で主に使われています。

「logos」という言葉は、主イエスキリストを神のことば(logos)として認識するために使われています(ヨハ1:1)が、rhemaはこのようには決して使われません。「logos」は主に、書かれた神のことばを認識するために使われますが、「rhema」もまた、マタイの福音書四章四節では、書かれた神のことばとして使われています。「logos
tou
Theo(神のことば)」というフレーズは、新約聖書全体で、十二回出てきます(ルカ8:11;ヨハ10:35;使徒6:7,12:24,17:13;ローマ9:6;1コリ14:36;2テモ2:9;テト2:5;ヘブ4:12;1ヨハ2:14;黙示19:13)。「logos」も「rhema」も正確に訳すと「言葉」ではありますが、「logos」の方が書かれた神の言葉を表すのに、より意味を限定した言葉であると信じられる理由があります。

「logos」という言葉を、神のひとりごとなった永遠の言葉とすることによって、明らかに神は、それに特別な意味を与えました。一方でrhemaは、神による宣言、神の発した言葉を表す言葉として、ユニークな役割を果たしていると理解することができます。そしてそれは、書かれた言葉を超えて、神の啓示を語るための御霊を与えられた人々をも含みます(1ペテ4:11)。
 
Daily Bread 2016年4月15日
Written by Pastor Sho Usami
Sunday, 17 April 2016 23:46
レビ16:16-彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の幕屋にも、このようにしなければならない。

「kipper」の一般的な訳は、「贖う」、「償う」です。しかし、多くの場合、「kipper」が洗い清めることを意味するという証拠が多たくさんあります。詩の中で同じようにして使われる同義語は、「macha」(拭う)(エレ18:23)、または、「hesir」(取り除く)(イザ27:9)で、それは「kipper」が、「洗い清める」を意味することを暗示しています(The
Anchor Bible レビ(1-16), Jacob Milgrom, Nov 1991)。
エゼキエル書43:20,26では、この言葉は、「taher」の同義語として使われており、それは、洗い清めることを意味します。加えて、ヘブル語の基語「kapar」は、アッカド語の「kaparu」に相当し、「こすって磨く」、「完敗させる」を意味します。そして、アッカド語の「kuppuru」に相当するヘブル語は「kipper」で、それは、「こすって磨く」、「拭い去る」を意味します。ヘブル人への手紙から、贖いの日に、牛やヤギの血が礼拝者の罪を取り除き、洗い清めることはできなかったことが分かりますが、しかしながら、肉の清め(ギリシャ語:katharoteta)はありました(ヘブ9:13)。

ここレビ記での用いられ方について言えば、契約の箱の覆いは、イスラエルによる汚れ、反抗、罪によって汚されてしまったために、洗い清められなければならなかったのでしょう。それは、ヤハウェがイスラエルの真ん中にとどまり続けることができるためでした。レビ記10章から15章で分かるように、ヤハウェの住む場所が、純潔で汚れのない所であることが最も重要なことでした。ですから、この「kipper」という行為は、生け贄をもって罪の汚れを取り除くものであると理解しなければなりません。事実、昔この言葉は、洗浄剤と関連を持つ言葉として使われていました。そこからも、私たちは、契約の血を罪の汚れを取り除くための、聖なる洗浄剤と見なすことができます。贖いの日の中心にあったのは、契約の箱の覆いの洗い清めでした。おそらく、そういうわけで、エズラや放浪から帰ってきた人々は、幕屋の祭りは守り、贖いの祭りは守らなかったのでしょう。なぜなら、契約の箱が無かったからです(エズ3:1-6)。

今日、イエスの血によって、私たちの罪は取り除かれ、咎は洗い清められました。彼は、自身の血によって私たちを洗い清め、もし私たちが罪を犯したとしても、彼は忠実な方で、私たちの全ての罪を洗い清めてくれます。彼の血が私たちを清めたので、私たちは自分自身を、全ての罪から清められた者と見なさなければなりません。そして、彼の臨在を迎えることができるのです。
 
Daily Bread 2016年4月14日
Written by Pastor Sho Usami
Sunday, 17 April 2016 23:45
エペ5:18-また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩がある(救いがない)からです。御霊に満たされなさい。

ここで「放蕩」と訳されているギリシャ語「asotia」は、「a」と「sozo」が組み合わさった言葉で、文字通り、「救われていない、救いがない」を意味します。ギリシャ語「sozo」は、イエスキリストの名によってもたらされる救いを表すのに、新約聖書において最も使われる言葉です。ギリシャ文字の「a」は、英語と同じように、何かが完全に欠如していることを強調するための、否定を表す接頭辞です(日本語の「不」にあたります)。

第一ペテロ四章三節で使われいる「asotia」の文脈を見ると、この言葉の意味について疑問が残ることはありません。それは、救われていないことを意味し、新しい創造とされていない人々のことを言っています。この言葉は、旧約聖書では一回出てきて、ヘブル語の「zala」を訳したものです。その意味は、「価値のない、下劣な」です。新約聖書では三回、エペソ人への手紙五章十八節、テトスへの手紙一章六節、第一ペテロ四章四節で出てきて、キングジェームズバージョンでは「暴動」と訳されています。

以下に例を挙げる箇所を見て分かるように、旧約聖書では酒を飲むことは咎められています。「ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。あとでは、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す。あなたの目は、異様な物を見、あなたの心は、ねじれごとをしゃべり、」「しかし、これらの者もまた、ぶどう酒のためによろめき、強い酒のためにふらつき、祭司も預言者も、強い酒のためによろめき、ぶどう酒のために混乱し、強い酒のためにふらつき、幻を見ながらよろめき、さばきを下すときよろける。」(箴言23:31-33;イザ28:7-Green
Literal訳)さらに、ぶどう酒や度の強い(発酵した)飲み物を交わした人は、誰も主の臨在に入ることはできませんでした。または、主によって死がもたらされました(レビ10:9;エゼ44:21)。

旧約の時代、人々が作ることのできる最もアルコール度数の高い飲み物は、今日のビールと同じようなものでした。よろめきという言葉は、十七ある肉の働きの一つとして強く非難されていますが、それは文字通り、酔いと訳すことができます。パウロは聖書の中で、酔う者は神の国を継ぐことがないと、二回忠告しています(ガラ5:21;1コリ6:10)。また、教会には、酔う者とは食事を共にするなとも言っています(1コリ5:11)。酔いは、新約聖書の中では、全体で十回にわたって、不従順な子どもの行いのように記されています(ローマ13:13;1ペテ4:3;1コリ6:10,5:11;ルカ21:34,12:45;エペ5:18;1テサ5:7;マタ24:49)。
 
Daily Bread 2016年4月13日
Written by Pastor Sho Usami
Sunday, 17 April 2016 23:45
1ヨハ4:11-愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

お父さんが私たちが互いに持つよう命じている愛は、イエスが私たちの罪のために十字架で死んだ時に、私たちに伸べられた愛と同じものです。真の愛とは神の愛で、彼の愛は聖霊によって私たちに与えられました。私たちは神の愛にあずかる者とされただけでなく、彼の愛を表すための力が与えられるという特権があります。これ以上に素晴らしい命令はありません!またこれ以上に素晴らしい救いの証はありません!(ヨハ13:34-35,15:12;コロ3:14;1テサ4:9;1ペテ4:8;1ヨハ3:11,23;ユダ21)

神にとって最も重要なことは、私たちが彼の愛の中を歩むことです。神の人々を愛さないための正当な理由などありません。相手のために自分の命を捨てるというところまで、私たちは召されているからです。神は、ご自身が持っているのと同じ愛の中を私たちが歩み、彼に従順になって従う者となるために私たちのことを召し出しています(エペ5:1-2)。
 
Daily Bread 2016年4月12日
Written by Pastor Sho Usami
Sunday, 17 April 2016 23:44
1ヨハ2:16-すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

ここで使われている言葉、「he epithymai tes
sarkos」(肉の欲)は、(お父さんである)神から生まれていない者が持つ特徴の一つです。お父さんの愛は、この世の愛に反するので、肉の欲は御霊の欲に反します。お父さんの愛は、「不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活する」ことを私たちに教えます(テト2:12)。「epithymai」という言葉は、「願い、望み」を意味し、よい意味でも悪い意味でも使われます。ピリピ人への手紙一章二十三節で、パウロは、「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。」と言っています。一方で、ヨハネの福音書八章四十四節では、悪い意味で使われています。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望(epithymai)を成し遂げたいと願っているのです。」

「肉の欲」を理解するのに、ギリシャ語またはヘブル語の二つの意味からアプローチをすることができます。ヘブル語の概念で「sarx」(欲)は、すべての人の弱さを含んでいて、単に肉体的感覚や情欲的なものだけでなく、聖なる助けがない単なる人の領域のことも意味します。これは、新約聖書の中でも、「sarx」が、聖なる啓示とは異なった、人の知識(肉と血)を表すときに見られます(マタ16:17;ガラ1:16;ヨハ8:15)。
パウロはまた、肉を神の御霊に反する罪の力とも見なしています。そしてその力は、キリストによる割礼によって、取り除くことができる力です(ローマ7:5,6:6;コロ2:11)。

ギリシャ人は「sarx」を、もっぱら、食べること、飲むこと、不法な性的関係などを表すときだけに使います。彼らは「sarx」を、肉体的感覚や情欲的なもの、また霊的なもの、敬虔なものとは反するものと見なします。しかし、私たちが聖書の中で「肉」という言葉を見る時、「肉」という表現が必ずしも悪に関することだけを表すと結論付けるのは、正しくありません。たとえば、キリストイエスが肉によって現れ、肉によって苦しみを受けた、とも書いてあります。しかし、「肉の欲」という言葉に焦点を当てると、神の御霊に反するもの、お父さんの御心と対照的なものにだけ使われていることが分かります。「主イエスキリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲を満足させるようなことはありません。」「キリストイエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ローマ13:14;ガラ5:16-17,24)

新約聖書では、御霊のものと肉のものがはっきり区別されています。しかし同時に、イエスは肉となって、御霊に従って生きました。しかし、肉と御霊の間にある区別は、光と闇の間のそれと同じように明確であり、人間の能力と天からの力が対照的であるのと同じだという事実があります(ガラ4:22-29)。しかしながら、確信できることが一つあります。つまり、神は、全ての人が御霊によって生まれ、御霊に従って生きることが不可欠であるとしています(ヨハ3:6;ローマ8:9;1ペテ4:1)。今や、この過激的な性質の変化を私たちにもたらした神の恵みによって、私たちは「肉にではなく、御霊にある」者なのです(ローマ8:9)。ですから、今日、御霊に委ねて、私たちのすべての思いに対する主導権を渡しましょう。
 
Page 8 of 131
Powered by MMS Blog

Daily Bread Sign Up

 
Get the Daily Bread
Email:
 
For Email Newsletters you can trust

Bible Study Tools

On Line Bibles

Bible Gateway
Biola Univeristy's Online Bible

Original Language Tools

Greek
Online Lexicon

Hebrew
Online Lexicon

Original Language Courses

Learning Greek
Learning Hebrew