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Daily Bread 2016年4月11日
Written by Pastor Sho Usami
Sunday, 17 April 2016 23:43
1ヨハ3:11-互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。

神から人に対するこの普遍的なメッセージは、全ての人を神の愛の領域へと招くものです。これは、聖書が伝えている全ての裏側にあるメッセージです。神は愛であって、私たちが神を知り、彼と共に歩みたいのならば、彼の愛に従順にならなければなりません(ローマ13:8,10;マタ22:40)。

神の愛のメッセージは、イエスが苦しみ、私たちのために死ぬという最も素晴らしいかたちで私たちに伝えられました。ヨハネはこれと同じ言葉を用いて、神は光であって、彼のうちには少しも暗いところがないと言いました(1ヨハ1:5)。人の内には、このような愛、このような光を知ること以上に大きな願望があるはずがありません。世界の神が、変わることのない愛という性質をいつも持ってくれていることで、私たちの魂は平安で満ちるべきです(1ヨハ4:7-8;ヘブ13:8;ヤコ1:17)。

もしあなたが神を知っているならば、その愛と光の中を歩むことを学びます。まず第一に、私たちは彼によって愛されなければならず、それから、逆に彼を愛することを学ぶのです。あなたが神の愛の中を歩もうとしているなら、あなたが隣人との関わりの中で迫られる決断の答えは、大概すでに決まっています。神が彼らを愛しているように、あなたも彼らを愛するのです。
 
Daily Bread 2016年4月9日~4月18日
Written by Pastor Sho Usami
Sunday, 17 April 2016 23:42
いつもDaily Breadを読んでいただきありがとうございます。
さて、4月9日から16日までの間、配信することができておらず、申し訳ありませんでした。
この間の分を本日の分と併せてお送りします。
メールの数が多くなりますが、どうぞよろしくお願いします。




Daily Bread 2016年4月9日

1ヨハ4:3-イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。

「反キリスト」という言葉は聖書で4回使われていますが、ヨハネの手紙のみで使われています(1ヨハ2:18,22,4:3;2ヨハ7)。実際には、ヨハネはいずれ現れる特定の個人のことを表しているのですが、彼は、イエスが神であることを否定するより巧妙な惑わしが、今すでに働いていることも表しています。この惑わしの霊は、最終的にパウロが「不法の人、滅びの子」と呼んでいる人として完全に露になります(2テサ2:3)。反キリストの霊は、サタンがキリストイエスに敵対して働かせる惑わしですが、それは最終的に艱難時代の中間地点で、反キリストが自分自身を神であると宣言するところにまで至ります(マタ24:15;ダニ11:31)。

その反キリストは、奇跡や不思議なわざをもってこの世を欺きます(2テサ2:9)。彼がその魔術によって鎮圧したこの世の中が、彼に従っていきます。そして、自分自身を神とし、戦争、飢饉、死、地獄を引き起こします(黙示6:2-8)。サタンの惑わしの力は、最終的に国々が集まり、アルマゲドンの戦いでイエスキリストに対して戦うに至るまでのものです。よって、今も人々がイエスの名に歯向かうことは驚くべきことではありません。
 
Daily Bread 2016年4月18日
Written by Pastor Sho Usami
Sunday, 17 April 2016 23:31
エペ1:3-私たちの主イエスキリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

ギリシャ語の「pneumatikos」(霊的な)は、新約聖書の中にしか出てきません。最初にローマ人への手紙1:1に出てきて、パウロの霊的力と賜物を兄弟たちに分け与えたいという願いについて書かれています。霊的祝福とは、すべて神の国のためになることや、神の国が表されることも含みます。霊的祝福と、天のものとの関係は重要です。-この世の領域においては、霊的祝福は存在せず、天の領域においてのみです。パウロは、私たちがこの天の場所で、キリストとともに座についていることを明言して、このことを明らかにしています(エペ2:6)。私たちが神によって生まれたとき、目に見えない変化が起こって、私たちは闇の国から愛する御子の国へと移されました(コロ1:13)。これが、神にある今という現実の知識、意識であり、それによって、私たちは自分自身をそれまでと違ったアイデンティティーを持つ者と考え、この世において、キリストの代表としてどう働きを成すべきかを考えるのです(2コリ5:20)。

霊的なものの意味について考える時、それは、教会の人々を通しての御霊の働き方に焦点が置かれます。神が教会を建てた時、神は、よみがえった救い主イエスキリストの栄光と力を完全に表すようにと力を与えました。イエスが表されるためには、私たちは、イエスを表すためにもたらされた聖霊に、自分自身を委ねなければなりません(ヨハ16:12-15;1コリ12:7-11)。イエスが、神の王座に上げられる前に、弟子たちに語った最後の言葉は、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、・・・」(使途1:8)でした。イエスは、ご自身がこの世での働きのために受けたのと同じ御霊、同じ油注ぎを私たちにも与えました。また、ご自身が受けたのと同じ、神の国を表すための力、お父さんのみわざを行うための力も与えました。

パウロは、奇跡、しるし、不思議なわざを生み出す、霊のものと聖霊の表れの間にあるつながりを強固にしました。私たちは、霊のものとは、聖霊の統治、働き、また表れであることを理解する必要があります。イエスキリストが主であることを告白することに始まり、すべての御霊の賜物にまで至るのです(1コリ12:1-11)。パウロは、私たちの課題について、1コリ14:1で明確にしており、愛と霊の領域に付き従っていくことに注意を向けさせています。私たちの国籍は天にあり、私たちの霊的祝福は天にあります。そして、私たちの命と導きは、御霊の中に存在します(ピリ3:20;ガラ5:22-23;ローマ8:4)。福音のよい知らせを固く握り、解放されて、愛する御子の国で完全に人生を生きましょう。
 
Daily Bread 2016年4月16日
Written by Pastor Sho Usami
Sunday, 17 April 2016 23:31
エペ6:17-救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことば(rhema Theo)を受け取りなさい。

第二コリント十章四節で言われている私たちの戦いの武器について考える時、御霊の剣ほど際立って素晴らしいものはありません。新約聖書で言われている武器は二つありますが、御霊の剣が最高の地位を占めています(ローマ6:13)。私たちが遭遇する様々な試みの中で直面する本当のチャレンジとは、私たちが神のことばを信じるか、人の言うことを信じるかということです。もし神のことばを手に取るならば、それは私たちの手にあり、口にある主の剣となります。そしてそれは、私たちを滅ぼそうとし、私たちから神の祝福を盗もうとするすべてのものを打ち破ります。霊的なことであろうと、肉体的なことであろうと、経済的なことであろうと、サタンが私たちに敵対して行ってくる全てのことに対して堅く立つための効果的な唯一の方法は、私たちの唇で神を高らかにほめたたえ、この鋭い両刃の剣を手に持つことです(詩篇149:6)。

私たちの主イエスキリストが、その口の剣で神の敵を殺すように、私たちもまた、人、または悪によるあらゆる敵対する力を神のことばによって滅ぼします(黙示19:15,21;1ヨハ2:14)。ギリシャ語の「rhema
Theo」(神のことば)というフレーズは、新約聖書の中で他に四回出てきます。一回目は、ルカの福音書三章二節の「神のことば(rhema)がヨハネに下った。」です。ヨハネの福音書八章四十七節で、イエスは、「神から出た者は、神のことば(rhema)に聞き従います。」と言いました。パウロはこの言葉をローマ人への手紙十章十七節でも用いています。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストのみことば(rhema)によるのです。」そして最後に、ヘブル人への手紙十一章三節では、「信仰によって、私たちは、この世界が神のことば(rhema)で造られたことを悟り、」とあります。(詩篇三十三篇六節では、logos(神の言葉)が使われていることを知っておいてください。「主の言葉によって、天は造られた。」)

ギリシャ語旧約聖書で最初に「rhema」が出てくるのは、創世記十五章一節で、「これらの出来事の後、主のことば(rhema)が幻のうちにアブラハムに臨んだ。」です。ギリシャ語の「rhema」は、「rheo」という言葉に由来し、その意味は、「話すこと」、「口にして発すること」です。しかし、「ことば」を表すギリシャ語は主に、旧約聖書でも新約聖書でも「logos」です。ギリシャ語「logos」は、新約聖書では三百三十回出てきますが、「rhema」は七十回です。また、ギリシャ語「logos」は、七十人訳では千二百三十九回、「rhema」は五百四十六回出てきます。ギリシャ語の「logosとrhema」は、同じヘブル語の言葉で訳されています。しかし、logosと訳されている場合の九十パーセントは、ヘブル語「dabar」を訳したもので、これは、「書き言葉」または、聖書的ヘブル語の中の「モーセの律法」でしか使われない言葉です。しかし同時に、「rhema」はモーセの五書では、主に「dabar」の訳として使われ、「logos」は預言の書で主に使われています。

「logos」という言葉は、主イエスキリストを神のことば(logos)として認識するために使われています(ヨハ1:1)が、rhemaはこのようには決して使われません。「logos」は主に、書かれた神のことばを認識するために使われますが、「rhema」もまた、マタイの福音書四章四節では、書かれた神のことばとして使われています。「logos
tou
Theo(神のことば)」というフレーズは、新約聖書全体で、十二回出てきます(ルカ8:11;ヨハ10:35;使徒6:7,12:24,17:13;ローマ9:6;1コリ14:36;2テモ2:9;テト2:5;ヘブ4:12;1ヨハ2:14;黙示19:13)。「logos」も「rhema」も正確に訳すと「言葉」ではありますが、「logos」の方が書かれた神の言葉を表すのに、より意味を限定した言葉であると信じられる理由があります。

「logos」という言葉を、神のひとりごとなった永遠の言葉とすることによって、明らかに神は、それに特別な意味を与えました。一方でrhemaは、神による宣言、神の発した言葉を表す言葉として、ユニークな役割を果たしていると理解することができます。そしてそれは、書かれた言葉を超えて、神の啓示を語るための御霊を与えられた人々をも含みます(1ペテ4:11)。
 
Daily Bread 2016年4月15日
Written by Pastor Sho Usami
Sunday, 17 April 2016 23:30
レビ16:16-彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の幕屋にも、このようにしなければならない。

「kipper」の一般的な訳は、「贖う」、「償う」です。しかし、多くの場合、「kipper」が洗い清めることを意味するという証拠が多たくさんあります。詩の中で同じようにして使われる同義語は、「macha」(拭う)(エレ18:23)、または、「hesir」(取り除く)(イザ27:9)で、それは「kipper」が、「洗い清める」を意味することを暗示しています(The
Anchor Bible レビ(1-16), Jacob Milgrom, Nov 1991)。
エゼキエル書43:20,26では、この言葉は、「taher」の同義語として使われており、それは、洗い清めることを意味します。加えて、ヘブル語の基語「kapar」は、アッカド語の「kaparu」に相当し、「こすって磨く」、「完敗させる」を意味します。そして、アッカド語の「kuppuru」に相当するヘブル語は「kipper」で、それは、「こすって磨く」、「拭い去る」を意味します。ヘブル人への手紙から、贖いの日に、牛やヤギの血が礼拝者の罪を取り除き、洗い清めることはできなかったことが分かりますが、しかしながら、肉の清め(ギリシャ語:katharoteta)はありました(ヘブ9:13)。

ここレビ記での用いられ方について言えば、契約の箱の覆いは、イスラエルによる汚れ、反抗、罪によって汚されてしまったために、洗い清められなければならなかったのでしょう。それは、ヤハウェがイスラエルの真ん中にとどまり続けることができるためでした。レビ記10章から15章で分かるように、ヤハウェの住む場所が、純潔で汚れのない所であることが最も重要なことでした。ですから、この「kipper」という行為は、生け贄をもって罪の汚れを取り除くものであると理解しなければなりません。事実、昔この言葉は、洗浄剤と関連を持つ言葉として使われていました。そこからも、私たちは、契約の血を罪の汚れを取り除くための、聖なる洗浄剤と見なすことができます。贖いの日の中心にあったのは、契約の箱の覆いの洗い清めでした。おそらく、そういうわけで、エズラや放浪から帰ってきた人々は、幕屋の祭りは守り、贖いの祭りは守らなかったのでしょう。なぜなら、契約の箱が無かったからです(エズ3:1-6)。

今日、イエスの血によって、私たちの罪は取り除かれ、咎は洗い清められました。彼は、自身の血によって私たちを洗い清め、もし私たちが罪を犯したとしても、彼は忠実な方で、私たちの全ての罪を洗い清めてくれます。彼の血が私たちを清めたので、私たちは自分自身を、全ての罪から清められた者と見なさなければなりません。そして、彼の臨在を迎えることができるのです。
 
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