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Daily Bread 2016年4月14日
Written by Pastor Sho Usami
Sunday, 17 April 2016 23:29
エペ5:18-また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩がある(救いがない)からです。御霊に満たされなさい。

ここで「放蕩」と訳されているギリシャ語「asotia」は、「a」と「sozo」が組み合わさった言葉で、文字通り、「救われていない、救いがない」を意味します。ギリシャ語「sozo」は、イエスキリストの名によってもたらされる救いを表すのに、新約聖書において最も使われる言葉です。ギリシャ文字の「a」は、英語と同じように、何かが完全に欠如していることを強調するための、否定を表す接頭辞です(日本語の「不」にあたります)。

第一ペテロ四章三節で使われいる「asotia」の文脈を見ると、この言葉の意味について疑問が残ることはありません。それは、救われていないことを意味し、新しい創造とされていない人々のことを言っています。この言葉は、旧約聖書では一回出てきて、ヘブル語の「zala」を訳したものです。その意味は、「価値のない、下劣な」です。新約聖書では三回、エペソ人への手紙五章十八節、テトスへの手紙一章六節、第一ペテロ四章四節で出てきて、キングジェームズバージョンでは「暴動」と訳されています。

以下に例を挙げる箇所を見て分かるように、旧約聖書では酒を飲むことは咎められています。「ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。あとでは、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す。あなたの目は、異様な物を見、あなたの心は、ねじれごとをしゃべり、」「しかし、これらの者もまた、ぶどう酒のためによろめき、強い酒のためにふらつき、祭司も預言者も、強い酒のためによろめき、ぶどう酒のために混乱し、強い酒のためにふらつき、幻を見ながらよろめき、さばきを下すときよろける。」(箴言23:31-33;イザ28:7-Green
Literal訳)さらに、ぶどう酒や度の強い(発酵した)飲み物を交わした人は、誰も主の臨在に入ることはできませんでした。または、主によって死がもたらされました(レビ10:9;エゼ44:21)。

旧約の時代、人々が作ることのできる最もアルコール度数の高い飲み物は、今日のビールと同じようなものでした。よろめきという言葉は、十七ある肉の働きの一つとして強く非難されていますが、それは文字通り、酔いと訳すことができます。パウロは聖書の中で、酔う者は神の国を継ぐことがないと、二回忠告しています(ガラ5:21;1コリ6:10)。また、教会には、酔う者とは食事を共にするなとも言っています(1コリ5:11)。酔いは、新約聖書の中では、全体で十回にわたって、不従順な子どもの行いのように記されています(ローマ13:13;1ペテ4:3;1コリ6:10,5:11;ルカ21:34,12:45;エペ5:18;1テサ5:7;マタ24:49)。
 
Daily Bread 2016年4月13日
Written by Pastor Sho Usami
Sunday, 17 April 2016 23:29
1ヨハ4:11-愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

お父さんが私たちが互いに持つよう命じている愛は、イエスが私たちの罪のために十字架で死んだ時に、私たちに伸べられた愛と同じものです。真の愛とは神の愛で、彼の愛は聖霊によって私たちに与えられました。私たちは神の愛にあずかる者とされただけでなく、彼の愛を表すための力が与えられるという特権があります。これ以上に素晴らしい命令はありません!またこれ以上に素晴らしい救いの証はありません!(ヨハ13:34-35,15:12;コロ3:14;1テサ4:9;1ペテ4:8;1ヨハ3:11,23;ユダ21)

神にとって最も重要なことは、私たちが彼の愛の中を歩むことです。神の人々を愛さないための正当な理由などありません。相手のために自分の命を捨てるというところまで、私たちは召されているからです。神は、ご自身が持っているのと同じ愛の中を私たちが歩み、彼に従順になって従う者となるために私たちのことを召し出しています(エペ5:1-2)。
 
Daily Bread 2016年4月12日
Written by Pastor Sho Usami
Sunday, 17 April 2016 23:28
1ヨハ2:16-すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

ここで使われている言葉、「he epithymai tes
sarkos」(肉の欲)は、(お父さんである)神から生まれていない者が持つ特徴の一つです。お父さんの愛は、この世の愛に反するので、肉の欲は御霊の欲に反します。お父さんの愛は、「不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活する」ことを私たちに教えます(テト2:12)。「epithymai」という言葉は、「願い、望み」を意味し、よい意味でも悪い意味でも使われます。ピリピ人への手紙一章二十三節で、パウロは、「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。」と言っています。一方で、ヨハネの福音書八章四十四節では、悪い意味で使われています。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望(epithymai)を成し遂げたいと願っているのです。」

「肉の欲」を理解するのに、ギリシャ語またはヘブル語の二つの意味からアプローチをすることができます。ヘブル語の概念で「sarx」(欲)は、すべての人の弱さを含んでいて、単に肉体的感覚や情欲的なものだけでなく、聖なる助けがない単なる人の領域のことも意味します。これは、新約聖書の中でも、「sarx」が、聖なる啓示とは異なった、人の知識(肉と血)を表すときに見られます(マタ16:17;ガラ1:16;ヨハ8:15)。
パウロはまた、肉を神の御霊に反する罪の力とも見なしています。そしてその力は、キリストによる割礼によって、取り除くことができる力です(ローマ7:5,6:6;コロ2:11)。

ギリシャ人は「sarx」を、もっぱら、食べること、飲むこと、不法な性的関係などを表すときだけに使います。彼らは「sarx」を、肉体的感覚や情欲的なもの、また霊的なもの、敬虔なものとは反するものと見なします。しかし、私たちが聖書の中で「肉」という言葉を見る時、「肉」という表現が必ずしも悪に関することだけを表すと結論付けるのは、正しくありません。たとえば、キリストイエスが肉によって現れ、肉によって苦しみを受けた、とも書いてあります。しかし、「肉の欲」という言葉に焦点を当てると、神の御霊に反するもの、お父さんの御心と対照的なものにだけ使われていることが分かります。「主イエスキリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲を満足させるようなことはありません。」「キリストイエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ローマ13:14;ガラ5:16-17,24)

新約聖書では、御霊のものと肉のものがはっきり区別されています。しかし同時に、イエスは肉となって、御霊に従って生きました。しかし、肉と御霊の間にある区別は、光と闇の間のそれと同じように明確であり、人間の能力と天からの力が対照的であるのと同じだという事実があります(ガラ4:22-29)。しかしながら、確信できることが一つあります。つまり、神は、全ての人が御霊によって生まれ、御霊に従って生きることが不可欠であるとしています(ヨハ3:6;ローマ8:9;1ペテ4:1)。今や、この過激的な性質の変化を私たちにもたらした神の恵みによって、私たちは「肉にではなく、御霊にある」者なのです(ローマ8:9)。ですから、今日、御霊に委ねて、私たちのすべての思いに対する主導権を渡しましょう。
 
Daily Bread 2016年4月11日
Written by Pastor Sho Usami
Sunday, 17 April 2016 23:27
1ヨハ3:11-互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。

神から人に対するこの普遍的なメッセージは、全ての人を神の愛の領域へと招くものです。これは、聖書が伝えている全ての裏側にあるメッセージです。神は愛であって、私たちが神を知り、彼と共に歩みたいのならば、彼の愛に従順にならなければなりません(ローマ13:8,10;マタ22:40)。

神の愛のメッセージは、イエスが苦しみ、私たちのために死ぬという最も素晴らしいかたちで私たちに伝えられました。ヨハネはこれと同じ言葉を用いて、神は光であって、彼のうちには少しも暗いところがないと言いました(1ヨハ1:5)。人の内には、このような愛、このような光を知ること以上に大きな願望があるはずがありません。世界の神が、変わることのない愛という性質をいつも持ってくれていることで、私たちの魂は平安で満ちるべきです(1ヨハ4:7-8;ヘブ13:8;ヤコ1:17)。

もしあなたが神を知っているならば、その愛と光の中を歩むことを学びます。まず第一に、私たちは彼によって愛されなければならず、それから、逆に彼を愛することを学ぶのです。あなたが神の愛の中を歩もうとしているなら、あなたが隣人との関わりの中で迫られる決断の答えは、大概すでに決まっています。神が彼らを愛しているように、あなたも彼らを愛するのです。
 
Daily Bread 2016年4月9日
Written by Pastor Sho Usami
Sunday, 17 April 2016 23:26
1ヨハ4:3-イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。

「反キリスト」という言葉は聖書で4回使われていますが、ヨハネの手紙のみで使われています(1ヨハ2:18,22,4:3;2ヨハ7)。実際には、ヨハネはいずれ現れる特定の個人のことを表しているのですが、彼は、イエスが神であることを否定するより巧妙な惑わしが、今すでに働いていることも表しています。この惑わしの霊は、最終的にパウロが「不法の人、滅びの子」と呼んでいる人として完全に露になります(2テサ2:3)。反キリストの霊は、サタンがキリストイエスに敵対して働かせる惑わしですが、それは最終的に艱難時代の中間地点で、反キリストが自分自身を神であると宣言するところにまで至ります(マタ24:15;ダニ11:31)。

その反キリストは、奇跡や不思議なわざをもってこの世を欺きます(2テサ2:9)。彼がその魔術によって鎮圧したこの世の中が、彼に従っていきます。そして、自分自身を神とし、戦争、飢饉、死、地獄を引き起こします(黙示6:2-8)。サタンの惑わしの力は、最終的に国々が集まり、アルマゲドンの戦いでイエスキリストに対して戦うに至るまでのものです。よって、今も人々がイエスの名に歯向かうことは驚くべきことではありません。
 
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