9850 Carroll Canyon Road
San Diego, CA 92131 

map-apm-new

Click on map to get directions

Daily Bread 2014年1月21日
Written by Pastor Sho Usami
Wednesday, 22 January 2014 15:25
Daily Bread 2014年1月21日

ヘブ12:6‐主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。

親は皆、子供たちが彼ら自身のために懲らしめを受けなければならないことを知っている。子供がそのふるまいが間違っていることを学ぶには、それらのことをしてはならないとはっきり分かるように伝えられなければならない。それでも従わないのであれば、懲らしめを次の段階に上げなければならない。ここで使われている、次の段階の罰を意味するギリシャ語は「
mastigoi」であって、「鞭で打つ」と訳される。

ここで問われなければならないのは、「誤ったふるまいのために主に懲らしめを受ける必要がある大人たちは、なぜそういったしつけを憎しみと見なしてしまうのか」ということである。あなたの人生においてキリストの代わりに立っている牧師があなたを正す時、彼は自分を愛していないのだ、とあなたは受け取ってしまうかもしれない。しかし実際は、それが愛の行為なのである。関わりを持つことこそ、愛の命令以外のなにものでもない。自分自身を含めて私が知っている全ての牧師は、本来であれば他の人の問題や過ちに全く関わりたくはないのである。しかし、神がこれを命じており、私たちが神と協力しようと思わないならば、彼の代わりに語って働く者としてその立場に立つ資格はない。

あなたが過ちを犯して懲らしめを受けるならば、神はあなたを神の子として、また神の家に属する者として扱っている。これはあなたにとって祝福であって、神があなたの成功と繁栄を思いそれに尽くしているということである。しかし傲慢で反抗的になる時、あなたは反逆し自分を守ろうとするであろう。一つアドバイスできるのは、神に対抗して戦うのは賢明ではない、ということである。万一、主にあってあなたの上におかれている者が誤ってあなたを懲らしめた時、それをあなたが耐え忍んで受け取るならば、神はこれを喜ばれ、あなたはなお祝福されるのである(
1テサ5:12-13;エペ4:11-12;ヘブ13:17;1ペテ2:20;1テモ5:17)。とは言っても、これが珍しい事例であることは確かであろう。

主が自分の上においた者から懲らしめを受けない、と言うならば、残念ながらその罰は「裁き」という次の段階へ進むことを聖書の歴史は証している。実際パウロとペテロも不従順を理由に、重たく厳しい裁きの罰を下したのである(使徒
5:3-11;使徒13:10-11)。パウロはある人々の肉を滅ぼすために、完全に彼らをサタンに引き渡した(1コリ5:5;使徒13:10-11
)。それは彼らがへりくだって、神の国の道と神の国の方法に従うようになる望みを持っていたからである。最終的には神ご自身が全ての罪と不従順を定める。私たちが不従順を貫いて主の懲らしめに応えなければ、私たちは裁きを受ける。主からの懲らしめが自身のためであることをあなたがたが知り、忍耐を持って受け入れるよう私は励ましたい。なぜなら、地上で「裁かれること、それはこの世と共に罪に定められることのないように、主の懲らしめを受けることなのである」から(
1コリ11:32)。「私は懲らしめを後ではなく、今受ける」と皆で言おうではないか。
 
Daily Bread 2014年1月20日 マーク・スピッツバーゲン牧師のディボーションより
Written by Pastor Sho Usami
Tuesday, 21 January 2014 16:17
Daily Bread 2014年1月20日 マーク・スピッツバーゲン牧師のディボーションより

エペ5:11‐実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘しなさい。

誘惑の霊と悪魔の教えに満ちている世の中にいる今日の人々は、罪に対して声を上げる人にますます耳をかさないようになっている。しかし、神は罪を罰する方であり、私たちにも同じことを命じている。実際、皆に恐れを抱かせるために、神は教会に罪を犯す者を皆の前で責めることを命じている(
1テモ5:20
)。多くの人は、自分の行為がいかにイエスの御名と教会というコミュニティに反映するものであるかをあまり気にかけていないようである。私たちの判断に対する人道主義の教えとその影響は、私たちが思っているよりはるかに大きな位置を占めている。私たちは人ではなく神の側に立ち、私たちを贖ってくださったその大切な名を汚し、恥をかけるような機会をこれ以上悪魔に与えてはいけないのである。悟りを受けた後も罪を犯し続けようとする魂に対して危機感を抱き、彼らが救いようがないところまで落ちる前に、その道の過ちから離れるように勧めるべきである(ヘブ
6:2-8;モク2:16)。

私たち一人一人が、神の前に正しいことのために立ち上がって、罪から目をそらさない責任がある。私たちは個人を罰する者ではなく、イエスの名を名乗る全ての者が罪から離れなければならないことを命じる者なのである(
2テモ2:19;モク3:19;1ヨハ3:6-8;1ヨハ5:18
)。主の家を汚す者たちを、イエスが鞭で追い出すほどに主の家を思う熱心に食い尽くされたように、私たちも同じ思いを持とうではないか(ヨハ2:17;マル
11:15-17;1コリ5:1-7)。
 
Daily Bread 01/18/2014
Written by Pastor Sho Usami
Friday, 17 January 2014 16:42

Daily Bread 2014年1月18日 マーク・スピッツバーゲン牧師のディボーションより



ヘブ13:17
‐あなたがたを指導者たちの言うことを聞きいれて、服従しなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。



この聖書箇所には多くの人にとってとても耳障りな言葉が三つある。それは、「聞きいれる」、「指導」、「服従」である。多くの人はそれぞれの理由があってこれらのことを、当然のようにしようとしない。しかしこれらのことが神の国の道であり、私たちの人生における神のみ心である。主は油注いだ者の内に、成長、完成、神の働きのための能力を授けた。彼は教会に使徒、預言者、伝道者、牧師、教師を与えた。これは教会という身体の各部分に、キリスト・イエスから流れる御霊の供給を流し出すためである(エペ
4:11-12;エペ4:15-16;コロ2:19)。



立法学者やパリサイ人の言うことであっても守りなさい、とイエスが人々に命じたことを悟るとき、私たちはこれがどれほど大切であるかを知ることができる(マタ
23:2-3
)。神のことに対する服従と尊敬は、キリスト・イエスにある一人一人の個人的な成長に不可欠である。しかし多くの人は、主の御霊に従うことを妨げるためにやって来る、高慢と犯行の霊に対して立ち向かおうとしないのである。しかし人々がどう応えようと、神の命令は教会の指導者たちが神の民を見守り、権威を用いることである(1ペテ
5:2;1テサ5:12;1テモ5:17;ピリ2:12
)。神の家の指導者として、迫害と非難、そして多くの中傷を受けるかもしれないが、私たちは手を引いてはいけない。私たちは権威を尽くして教えることによって、たしなめ、責め、戒めるべきなのである(2テモ
4:2)。神の家には私たち自身の家にあるのと同じような秩序としつけがなければならない(1テモ3:5
)。聞く事を拒む人は、その傲慢さと反抗によって困難がもたらされることを忠告されているのである。

 
Daily Bread 01/16/2014
Written by Pastor Sho Usami
Thursday, 16 January 2014 10:41

Daily Bread 2014年1月16日 マーク・スピッツバーゲン牧師のディボーションより

ヨハ1:4‐この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

空っぽで虚しくて、暗いカオス状態の世界にイエスは踏み込んで、唯一の光の源と
なった。彼の内に現れた神の命こそが、この全世界への光であった。創世記1:3で、
虚しいカオス状態の世界に、神が光を輝かせるため命じたように、キリスト・イエス
が人類の霊的な闇に踏み込んだために、新たな日が明けることとなった。今や闇は過
ぎ去り、まことの光が輝いている(1ヨハ2:8)。神の臨在の表れである、彼の愛と
恵みが、全人類に光となって輝く。この聖霊にある徳、真理、義、平安、そして喜び
に満ちている神の命こそが光なのだ!

私たちがイエスに従っていくならば、私たちは罪と咎の闇の中を歩まず、命の光を持
つようになる(ヨハ8:12;エペ5:8)。私たちが神の臨在の光の中に足を踏み入れる
時、彼は全てを新しくする。私たちの人生の闇と虚しさは彼の栄光の光と命で満たさ
れ、新しい創造物として、私たちの人生は全ての良き完全な賜物で満たされる。命の
光であるキリスト・イエスが来て私たちの内に生きて、私たちは彼の内に生きる(1
ヨハ5:11;コロ1:27;ヨハ15:1-5)。私たちは彼の命の光の中立ち上がって、世の光
として生きるのである(イザ9:2;60:1;マタ5:14)。キリスト・イエスが私たちの
内に生きていて、彼の命が私たちを通して表れているからこそ、私たちが闇の中の光
なのである。宗教活動によってはこの命の代わりにはなれないので、闇の中に座して
いる者の灯台になることができない。また人が全力を尽くして行う努力や善も、神と
の関係と彼の臨在がないので、この光になることができない。その御子、キリスト・
イエスを持っている者だけが命の光を持っている。この命とは、全てのものが受け取
るために授けられた命である。

 
Daily Bread 01/08/2014
Written by Pastor Sho Usami
Wednesday, 08 January 2014 11:48

Daily Bread 2014年1月8日 マーク・スピッツバーゲン牧師のディボーションより

私たちは自分の必要を満たすために、多くの場合、自分自身の一部を手放さないとい
うリスクを負う。しかし礼拝に関して言えば、一番に優先するものとして定められて
いる。

モク5:12−彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢い
と、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

私たちがイエスを見つめて、彼が何者であって何をしているかを知るとき、私たちの
応答は、これら大勢の聖徒と天使たちの応答と確かに同じになる。全てを創り、あが
なわれた方を崇める時、彼らは自分の内にある全てを尽くして叫ぶ。「力と、富と、
知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美は全てあなたのものである!」全ては彼のも
のであって、彼がそれらを創って、あがなったのだから、それらすべてを受けるのに
相応しい。全てを有し、全てを司っている方は、私たちが持っている全てのものを
もって、私たちを祝福した。彼だけが私たちを偉大にして、力づける力を持っている
(1歴代29:11−12)。

私たちは自分の必要を満たすために、多くの場合、自分自身の一部を手放さないとい
うリスクを負ってしまう。しかし礼拝に関しては、一番に優先するものとして定めら
れている。レビ記は、火をもって煙にかえられる供え物を携えて礼拝しに来るよう
に、という招きから始まる。この供え物は人のために残される分はなく、むしろ、全
焼のいけにえとして、栄光に満ちた神の雲のところまで登っていき、その栄光の雲と
区別がつかないものとなった。この少しも残すことのない全焼のいけにえによって、
人は神に近づくことができた。神がそのとき表した望みは今日にいたっても同じであ
る。つまり、人が神に完全に信頼して、全ての必要において彼に信頼してほしいとい
う望みである。全能なる方との愛の関係にあって、神は人々の全ての必要を満たし、
さらにこの地上で偉大な者としてくれる。そして人々は自分が所有する全ての霊的、
物理的、物質的なものをもって彼を愛する。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽く
して、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命6:5;申命10:12;申命11:13;申命
30:6)

彼は全ての栄光と賛美を受けるのに相応しいだけでなく、私たちの全ての富をも受け
るのに相応しい。初代教会はイエスが何者なのかを見出したとき、持っていた全ての
ものを神の御国ために捧げた。そして「だれひとりその持ち物を自分のものと言わ
ず、すべてを共有にしていた」(使徒4:32)。またマケドニア人にイエスの威光が
現されたとき、彼らも同じように賛美の声をあげて、持っていた全てを捧げた(2コ
リ8:2−5)。御霊のローマ人への叫びは、彼らが自分自身を、神に受け入れられ
る、生きた聖なる供え物として捧げるという願いであった(ローマ12:1)。私たち
が神の国と神の義を人生において最も大切なものとし、神を信頼して、持っている全
てのものを彼に捧げるならば、私たちは真実な礼拝だけでなく、全てを支配される方
から与えられる備えを見出すようになる。彼の手には勢いと力があり、彼の手の内に
のみ、私たちを偉大な者とし、力を与える決定権がある(1歴代29:11−12;ピリ4:
19)。

 
Page 131 of 131
Powered by MMS Blog

Daily Bread Sign Up

 
Get the Daily Bread
Email:
 
For Email Newsletters you can trust

Bible Study Tools

On Line Bibles

Bible Gateway
Biola Univeristy's Online Bible

Original Language Tools

Greek
Online Lexicon

Hebrew
Online Lexicon

Original Language Courses

Learning Greek
Learning Hebrew